レジェンドたちの回顧録 前編・リュネットジュラ 高橋一男さん

インポートブランドを扱うセレクトショップの先駆け的存在、Lunettes du Jura(リュネット・ジュラ)。掛けた人が思わず笑顔になるような、カラフルでユニークなアイウェアを日本に紹介してきた名店だ。ジュラへの来店をきっかけに、眼鏡好きになったという人も少なくないだろう。

そんなジュラの創始者であり現在も代表を務めるのが、高橋一男さん。これまで眼鏡雑誌などではあまり語られてこなかった、ジュラを始めるまでの経歴や、現在のシーンに思うことなど話を訊いた。

銀行勤務から一転、父の眼鏡店へ

まずは生い立ちから教えてください。

高橋 生まれは1948年、出身は新潟県です。十日町という非常に雪深いところで、父が眼鏡や時計、宝石を扱う兼業店を営んでいました。ですが、田舎なので商売にならず、兄弟が多かったこともあり、東京に出ようということになって。ちなみに、社名の「ミヤコヤ」は、先代が「都に店を出したい」という思いから名付けたものです。

まずは1950年に父の兄弟が、青山一丁目の現在ホンダの本社がある辺りに、車2台分ぐらいの大きさの建物を借りて店を始めました。私と父は1960年に新潟のお店を閉めて、こちらに出てきたという感じです。

では、お父様の代から青山周辺でお店をされていたと。

高橋 僕が中学生の頃に東京へ来て、高校生のときには父が青山に3軒、あと六本木と横須賀に店舗を作っていました。でも、子どもって父親の跡を継ぎたくないものじゃないですか(笑)。だから僕も大学に入って、まずは銀行へ就職して。ところが、勤めてみると父の仕事をそれなりに理解するわけです。というのも、銀行では外回りの仕事をしていたため、お会いする人の多くが中小企業の経営者で、そうした方たちが資金繰りに困ったりとか、あるいは成功したりとかしているのを見るうちに、「男の仕事って、こういうものだよな」とロマンのようなものを感じ始めたんですよね。そんな折り、父から戻ってくるように言われてミヤコヤに入りました。銀行にいたのは、1年半ぐらいですね。

売る努力をしていなかった眼鏡業界

その頃、店ではまだ海外の眼鏡を扱っていたわけではないですよね。

高橋 まだですね。それに兼業店でしたから、入社当時は時計と宝石の担当で、眼鏡には縁がなかったんです。でも、クォーツの時計が出てきたときに、もう時計は終わりになるだろうと。宝石に関しても非常にお金が必要になる商売だったので、1975年頃にやめました。僕が眼鏡に携わり始めるのは、それからです。当時は海外のブランドといっても、クリスチャン・ディオール等のいわゆるDCブランドのOEMですね。

その当時お店をやられていて、既存の眼鏡店の在り方に違和感のようなものはあったのでしょうか。

高橋 ものすごくありましたね。眼鏡業界って、みんな売る努力をしていないんですよ。時計や宝石は外商に出るわけですけど、眼鏡はお客様を待っているだけ。白衣を着て、検査をするなど技術的なことはしていますが、なんというか、眼鏡を掛ける人の気持ちにまではアプローチしていないというか……。

お客さん側も、病院に行って薬を処方してもらうような感覚に近かったんですかね。

高橋 そういう傾向が強かったですよね。でも、お客様は患者ではないので。店に並べているものは有名ブランドと言いながら、どこのお店も同じようなものが並んでいるし。これって、本当にお客様が探しているものなのかなと。我々店員も普通のスーツ着ているのに、眼鏡だけディオールって、なんか違うんじゃないかという思いがものすごくあったんですよ。

それに、自分自身近視というコンプレックスを持っていたから、「近視で良かったな。これで眼鏡が楽しめるな」と、そう思えるような眼鏡が必要だと思うようになって。この話をしたら、社内ではものすごく反発をくらったんだけど……。その頃、表参道の同潤会アパートに1室社員寮にしていた部屋があったので、そこをお店にしようという話になりました。でも3階でしたから、普通の眼鏡店をやってもお客様はますます来ない。それならばどこにもないものを置いて、これまでの眼鏡店とは違うお店をやろうと思ったんです。それが、大きな転機ですね。

トラクションとの出会いがジュラ開店のきっかけに


高橋 ちょうどその頃、第1回目のiOFTが開催され、そこで初めてトラクション(TRACTION PRODUCTIONS)と出会ったんです。見てみると、色がきれいだし、デザインも日本では見たこともないようなもので。とはいえ、売れそうもないんですよ(笑)。鼻幅が広いし、プラスチックフレームはパッドがないから下がってしまう。でも、これはなんとかできるだろうと。極端にいえば、日本にある眼鏡は色も形もつまらないし、これは僕に言わせれば楽しむための眼鏡としては欠陥なんです。ところがヨーロッパのものは、その点をクリアしているわけです。

その視点は、とても高橋さんらしいですね。

高橋 でも、その時は怖くて仕入れができず、後日、当時レップをしていたキャトルエピスさんから30本仕入れました。それを青山のお店に並べたら、「これ可愛いわ」ってお客さんが手に取って掛けるんですよ。そして、ひと月で10本売れたことが自信となり、同潤会でリュネット・ジュラをスタートしました。1989年7月のことです。

その頃は、同潤会だけがジュラという店名だったんですか。

高橋 そうです。ゼロから始めようと思い、ミヤコヤのお客様には一切お声がけしなかった。最初は検査の設備もなしで、紙の視力表をパネルにかけてね。7月に開店して、8月まで売上げがほぼゼロ。ヒマなので、外でチラシの手配りをしたり、雑誌の編集部に写真と案内を絶えず送ったりしていましたね。そうしたら、9月に『25ans(ヴァンサンカン)』に掲載され、10月は300万売れちゃったの。それからもメディア掲載とお客様の口コミなどがあり、2年目ぐらいから「これはいくな」という感じはしましたね。

異端児だけれど、自信はあった

シルモ1毎年秋にフランス・パリで行われる世界最大級のメガネ見本市。世界中のメガネブランドが集結し、メガネ界のアカデミー賞と言われるシルモ・ドール獲得へ向け、毎年世界中のメガネデザイナー達が研鑽しているに行き始めたのも、その頃ですか。

高橋 ジュラを始めた次の年ですから、1990年ですね。

当時、ほかに日本から行っている方はいたのでしょうか。

高橋 メーカーの方はいたけれど、小売店はほとんどいなかったですね。当時は会場内もわかりにくくて、どう回っていいかもわからず、うろつくことしかできませんでした。でも、日本の市場との違いは明らかに感じました。「あぁ、日本には日本で売れそうなものしか入ってきていないんだな」と。こんなに様々な眼鏡があるのに、どうして皆、問屋さんや商社さんが持ってくるものだけで満足しているのかなって。これはもったいないと思いましたね。

そうしたなかで、1990年代にかけてブティックブランドが盛り上がっていくわけですが、その頃の業界はどのような感じだったのでしょうか。

高橋 まぁ、うちなんかは完全に異端児でしたよね。ただ、ロイドさん(オプティシァン・ロイド)が先に似たような考え方でやってらして。阿部さんとはよく話もしましたし、逆にロイドさんを見て、鏡写しで反転させるかのように異なるやり方で自店のMDを考えたりもしましたね。でも、当時も多くのお店は相変わらずこれまで通りの商売をしていて。うちの会社でも、ジュラ以外はそうでしたから。バブルということもあり高い物もどんどん売れるし、レンズも高けりゃいいという感じで。みんな売れていましたけど、「あぁ、これはいずれダメになるな」と。僕自身は売れていなくても楽しかったし、心の底でニヤニヤしていましたね(笑)。

それは、将来はこっちが盛り上がるはずだという確信があったからですか。それとも、自分の好きな眼鏡を売ることができていたからでしょうか。

高橋 両方でしょうね。10年後に1億という目標を掲げていたんですけど、ゼロから始めているから、売れなくても動いた分だけ必ずプラスになるという発想で。だから、ゼロからって強いなと思いました。何をやっても良くなっていきますからね。

(後編へ続く)

 

 

 



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