レジェンドたちの回顧録 前編・オードビー 佐藤吉男さん

東京・御徒町にある日本初のスポーツサングラス専門店、オードビー。たしかな知識と技術で、世界を舞台に勝負するプロスリートからも頼りにされる名店だ。

オーナーの佐藤吉男さんは、日本におけるスポーツサングラス黎明期以前よりユーザーのニーズに細やかに対応し続け、試行錯誤しながら新たなマーケットを創出、牽引してきた。そんな佐藤さんに、オードビーを立ち上げるまでの経緯や、現在の眼鏡業界について思うことなど話を訊いた。

 

強度近視に悩まされたアウトドア青年

まずは生い立ちから教えてください。

佐藤 1956年に東京・台東区根岸で生まれました。親父の出身が深川で、母親は浅草だから江戸っ子2代目ですね。いつまでも母親から離れられないような弱虫だったこともあり、小学3年生のときに半ば無理矢理ボーイスカウトに入れられて。そこで、キャンプやスキーを体験したことで、自然に親しむようになりました。初めてのスキーは小学5年生の頃だったんですが、まだ1960年代半ばだから、今のようなスキーウェアなんてないんですよ。それに、僕はすでに強度近視だったから眼鏡で滑るんだけど、吹雪になったら前が見えないわけです(笑)。

小学生の頃から、強度近視だったんですね。

佐藤 はい。高校では山岳部だったんですが、雪山に登るときには自分の眼鏡に安物のサングラスクリップを付けて。でも、夜になると目がシバシバするんです。明らかに紫外線で目がやられているんですよね。でも、それしか無いから仕方なかった。

そうしたご苦労があって、眼鏡業界に入ろうと?

佐藤 いえ、そこは結びつかないんです。当時、叔父が浅草で宝石の彫金をしていて、僕も宝石の仕事をしたいと思っていたんです。ですが、叔父曰く「これからは宝石じゃなくて、眼鏡だよ」と。それで眼鏡の卸しをしている会社に入りました。1975年のことです。

 

眼鏡の卸から東京の眼鏡工場へ

佐藤 その頃は眼鏡業界でいろいろと変化があって、まず眼鏡レンズがガラスからプラスチックに移行し始めました。そしてセルフレームからメタルフレームにトレンドが大きく移っていきましたね。工場はドイツのローデンストック、マルヴィッツ、メッツラーに追いつけ追いこせという時代。

僕がいた会社で扱っていたものだと、村井が作っていたサンローランのサングラスが素晴らしくて、これは良く売れましたね。あとは、山本防塵のスポルディングが人気でした。その会社には約5年いて、その後、東京の眼鏡工場「敷島眼鏡」に入社しました。というのも、その卸の会社に出入りしていた人が、「アイファッションプランナー」という敷島の販売会社を作ったんです。これが、単なる販売会社ではなかったのが、入社の決め手で。そこのトップは、じつはレンズ込みの“一式価格”を眼鏡業界で初めて打ち出した有名な方で。僕は彼から、マーチャンダイジングとチェーンストアの理論を教わることになるんです。「お客さんの声を聞いて商品作りをする」ことが、小売店のやるべきことだと徹底的に叩き込まれました。

工場勤務でありながら、消費者目線を学んでいったと。

佐藤 そうですね。加えて、工場のことを知ることができたのも良かったです。卸し先に営業へ行って「こういうものが作りたい」と言われても、工場長が首を縦に振らないと作れません。それを「うん」と言わせるためには、工場でこうやって流したらどうですかと提言できないと絶対に実現できない。そうしたエンジニアリングセールスを教え込まれたのもこの時代でした。

 

ファッションにおける眼鏡のポジショニングを上げたい


佐藤 その頃眼鏡業界では、1984年にルネッタ バダがスタートし、1985年にはオプティシァンロイドがオープン。世間的にはDCブランドのサングラスが人気を博していました。オークリーがサングラスをやり始めたのもこの頃でしたね。

日本のアイウェアシーンが変わり始める頃ですね。

佐藤 その当時、自分のなかでショッキングな出来事があって。僕、1988年にイタリアの展示会MIDOへ初めて行ったんですよ。まだ日本人なんてほとんどいない時期で、そこで眼鏡がファッションとして打ち出されているのを目の当たりにして。やっぱり今の眼鏡に足りていないのはファッション要素だと、自分を含めて4人で勉強会を立ち上げたんです。

眼鏡やサングラスはファッションのなかでの立ち位置が低いから、まずはベルトなどの服飾雑貨ぐらいまでポジショニングを上げていこうと。そのためには、ファッションブランドにサングラスを作ってもらわなくては。ということで、僕はNICOLEやBIGI、COMME ÇA DU MODEなど、当時の日本の主要なブランドを全部回ったんです。そのなかで、JUNがやっていたDOMONや、当時yoshie inabaのアクセサリー部門だったCUSHKAのサングラスを作ることになったんです。

MIDOで衝撃を受けてからの行動力がすごいですね

佐藤 でも、あるとき某アパレル企業の会議に出席したとき、予算案を見て拍子抜けしちゃって。だって、ベルトが1万、バッグが3万、サングラスが3000円ですよ。もうこれはダメだと思い、それではメイクアップなら可能性があるのではないかと思いました。そこでコラボしたのがshu uemura。メイクアップサングラスとメイクアップ眼鏡というのをスタートしたんです。

1980年代に、そんな先駆的な取組みが。

佐藤 鎌田誠さんというメイクアップアーティストの方が、顔分析というメイクのメソッドを提唱していて。まず顔を4つに分類し、4つのサングラスを彼が考案しました。その分類に応じて、顔に似合う玉型のアイテムをお客様に提案していくというものです。じつは1988年にiOFTで講習会もしているんですよ。

ただ、その頃ワケあって敷島を辞めることになり、結果的にshu uemuraとの取組みはそこで終わってしまったんですよね。本当に残念だったんですけど……。それで、僕は以前から取組み始めていたボランタリーチェーン、「セイスター」を本格スタートさせたんです。

商品力を実証するために店舗をスタート

佐藤 セイスターも最初は勉強会としてスタートし、その後、共同仕入れをするボランタリーチェーンになりました。メンバーは、小売店4店舗と、僕と、もうひとり荒木というメンバーがいて。彼は店舗の内装やチラシ作りができたんで、店の造作から販促まで全部できたんです。で、商品に関するところは僕が担当して、眼鏡店のバックアップをしていました。設立は1990年だったんですが、翌年に荒木が42歳という若さで亡くなってしまって。スタートしてすぐに片輪が取れてしまったわけです。それで、僕が商品を強化していくしかないと。セイスターでないと仕入れられないものがあれば、会員は必然に集まるだろうと腹をくくりました。

その1991年に、オークリーが本国でRXという度付きレンズをスタートさせました。翌年、当時オークリーの代理店をしていたFETという会社から連絡があり、RXを日本でどう展開すればいいかと相談があったんです。

その頃から、スポーツサングラスに詳しい人だと認知されていたからですか?

佐藤 いえいえ、単に知り合いの紹介で。セイスター時代はそんな感じで相談を受けたり、小売店に商品面で協力したりしていたんですが、僕はその時点はで小売の現場を知らない人間じゃないですか。だから商品を語っても説得力に欠けるなと思っていたんです。それに、セイスターの商品力を自ら実証したいという気持ちもありました。そんなとき、うちのカミさんが「あなたも、お手本の小売店やったほうがいいわよ。もう物件見つけたから」と(笑)。そんなひょんなことから、オードビーはスタートしたんです。

(後編へ続く)

 
 

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